山階と稲作の歴史(近世編)

江戸時代の田植え

古代・中世編」の続きです。江戸時代の稲作に着目します。

検地と石高

近世では荘園が解体され、検地によってお米の収穫量に応じた年貢が徴収されるようになりました。


しかし年貢は変わらず重く、農民は刀狩によって武力を奪われ、抵抗もできない時代だったようです。

検地

豊臣秀吉は太閤検地により測量の単位を全国で統一。米1合をご飯1食分、10合で1升、10升で1斗、10斗で1石とし、米1石が「ご飯1年分」となるよう容積の単位を定めました。

地積(土地の面積)も「米1石が穫れる広さ(300歩)を1反」と定めましたが、実際には土が肥えていて収穫量の多い田もあります。そこで田ごとに石盛(斗代)という倍率を設け、地積×石盛=石高(収穫量)となるようにしました。

さらに石盛は田だけでなく畑や屋敷にも設定し、石高をすべてお米の量に換算して地域の生産力や経済力を示す指標としました。例えば「加賀百万石」は加賀藩に100万人を養う力があったということです。石高は武士の俸禄(給料)としても使われ、お米は単なる食糧ではなく、お金そのものでした。

石高はお米の収穫量を基準にしているため、新田開拓や土地改良によって年々変化します。そのため、表高(幕府公認の石高)とは別に、藩は内高(独自の検地による石高)を設け、実際の収穫量に近い石高に基づいて年貢を徴収していたようです。

山階の石高

生駒領高覚帳』によると、寛永17年(1640)の山階村の石高(内高)は1895.012石


これは当時の多度郡で最も高い石高です。

そして元禄7年(1694)、山階村は多度津藩の領地となりますが、その中でも一番の石高だったことが記録に残っています。下は同年8月の石高帳をグラフにしたものです。

多度津藩の村別石高(元禄7年)

多度津藩の表高は1万石。そのうち山階村は1567.093石(全体の約16%)を占めていました。

表高は山階村が随一ですが、内高は上之村や大見村が大きく伸びています。これは三野郡で土地改良が進んだためです。山階は早くから土地改良が進み、近世での改良の余地が少なかったことから、江戸中期以降は増えなかったようです。江戸末期には三野郡の各村に及ばなくなりますが、それでも今の多度津町域の中では一番の石高を誇りました。

山階の春日神社は何度も再建された記録が残っていますが、こうした豊かな石高があったからなのでしょう。

山階の年貢

年貢はいつの時代も重かったと言われますが、どれほどだったのでしょうか?


下の表は元禄7年(1694)11月の多度津藩の記録をもとに山階の年貢をまとめたものです。

地目・等級 地積(歩) 石盛 石高(石) 税率 年貢(石)
上田 34,562 185% 213.132 45% 95.910
上下田 25,732 170% 145.815 45% 65.617
中田 36,746 155% 189.854 45% 85.434
中下田 32,991 135% 148.460 45% 66.807
下上田 25,831 125% 107.629 35% 37.670
下田 24,974 110% 91.571 35% 32.050
下下田 38,258 95% 121.150 35% 42.403
219,094 1,017.611 425.891
上田(阿庄分) 17,414 185% 107.386 50% 53.693
上下田(阿庄分) 8,997 170% 50.983 50% 25.492
中田(阿庄分) 9,093 155% 46.981 50% 23.490
中下田(阿庄分) 7,684 135% 34.578 50% 17.289
下上田(阿庄分) 9,489 125% 39.538 35% 13.838
下田(阿庄分) 8,123 110% 29.784 35% 10.425
下下田(阿庄分) 7,761 95% 24.577 35% 8.602
68,561 333.827 152.829
上田(利兵衛分) 535 185% 3.299 28% 0.924
上下田(利兵衛分) 528 170% 2.992 28% 0.838
中田(利兵衛分) 1,294 155% 6.686 28% 1.872
中下田(利兵衛分) 684 135% 3.078 28% 0.862
下上田(利兵衛分) 1,119 125% 4.663 28% 1.306
下田(利兵衛分) 2,490 110% 9.130 28% 2.556
下下田(利兵衛分) 1,395 95% 4.418 28% 1.237
8,045 34.266 9.595
上畑 2,125 70% 4.958 36% 1.785
中畑 1,001 60% 2.002 24% 0.480
下畑 4,093 50% 6.822 20% 1.364
下下畑 5,486 30% 5.486 20% 1.097
12,705 19.268 4.726
屋舗 17,249 70% 40.248 40% 16.099
小計(田畑屋舗) 325,654 1,445.220 609.140
 
下上田(古新田) 471 100% 1.570 20% 0.314
下田(古新田) 1,523 90% 4.569 20% 0.914
下下田(古新田) 1,382 80% 3.685 20% 0.737
3,376 9.824 1.965
新田 1,389 80% 3.704 20% 0.741
西田 新田 900 100% 3.000 20% 0.600
新畑 2,340 45% 3.510 20% 0.702
未ノ新畑 62 40% 0.083 20% 0.017
4,691 10.297 2.060
合計 333,721 1,465.341 613.165

地目・等級によって税率が異なることが分かります。収穫量の多い田や屋敷は税率を高くすることで年貢を確保し、肥料を要する畑や新田は税率を低くすることで農民による土地改良を促していたようです。

また、「利兵衛分」という税率の低い田がありますが、これは給田(家臣に与えていた田)と思われます。武士との待遇の差は大きく、農民はたくさん収穫できても年貢が上がるだけで、生きるのに精一杯だったことがうかがえます。石高1,465.341石に対し、年貢は613.165石。率にして4割以上もの年貢が徴収されていました。

また、この年貢以外にも口米(年貢の3%)、夫米(石高の4%)、小物成(雑税)など多くの付加税を納めなくてはいけませんでした。年貢は検査も厳しく、少しでも粗悪米が混ざっていれば、すべてやり直しを命じられたようです。

米俵

西島八兵衛と山階

年貢を上げて自分の手柄にしようとする悪徳役人もいましたが、農民を助けたお役人もいました。

この時代の讃岐の稲作を支えた功労者として有名なのが西島八兵衛です。香川県には1万以上のため池がありますが、その多くは江戸時代に作られました。西島八兵衛は県内の90以上のため池と河川の改修を行ったことで「ため池の父」とも言われています。

満濃池
日本一の灌漑用ため池「満濃池」

西島八兵衛は寛永5年〜8年(1628〜1631)にかけて満濃池の改修も手掛けました。当時の記録によると満濃池の水は丸亀平野にある44の村に配分されていますが、満濃池の管理者6名のうち1名は「善右衛門」という山階の庄屋でした。当時の山階が満濃池の確固たる水利権を持っていたことが分かります。

また、西島八兵衛には報酬として1500石の知行権(年貢を受け取る権利)が与えられましたが、そのうち238.99石は弘田郷に割り当てられています。当時の山階は弘田郷に属していたため、山階の年貢の一部が与えられていた可能性も考えられます。

西讃百姓一揆

讃岐では寛延元年(1748)からその翌年にかけて、洪水、旱ばつ、地震などの天災が相次ぎました。飢饉により餓死者も出る惨状の中、東讃地方は高松藩からの救済措置がありましたが、西讃地方は何もなく、丸亀・多度津藩から重い年貢を科されました。

寛延2年(1749)に山階村の農民が総出で多度津藩の代官に願い出るものの救済には至らず、寛延3年(1750)の正月、多度津の農民ら1万人以上が三井の大庄屋・須藤猪兵衛宅を襲撃しました。この動きは他の西讃地域にも広がり、最終的に農民6万5千人以上が参加する西日本最大級の百姓一揆へと発展します。

その後、救済措置は取られましたが、一揆を主導したとされる西讃地域の7人が処刑されてしまいました。今ではその7人は身を挺して農民を救った「七義士」として尊ばれ、また「七人同志(七人童子)」という伝承としても語り継がれています。

森甚右衛門の顕彰碑
七義士のひとり「森甚右衛門」の顕彰碑

水をめぐる争い

天保10年(1839)には弘田村と山階村の農民の間で、灌漑用水をめぐる論争が起きたことが『万事覚附(香川家文書)』に記録されています。雨が少ない年の灌漑用水は「血の一滴」と称されることがありますが、まさにそれを象徴するような事件です。

江戸時代初頭、山階は丸亀藩領であり、弘田郷に属していました。寛永17年(1640)の時点で山階村として独立していることは石高帳で確認できますが、元禄4年(1691)に現在の弘階池が築造されていることから、水利の面で弘田村と山階村は同じ丸亀藩領のもとで協力関係にあったことがうかがえます。

弘階池
弘田と山階の水がめ「弘階池」

しかし弘階池築造の3年後、元禄7年(1694)に山階村は多度津藩領となります。治める藩が分かれたことで弘田村との協力関係が弱まり、後年の用水をめぐる対立へと発展してしまったのかもしれません。山階の春日神社と弘田の春日神社が分かれたのも、分藩の影響と思われます。

近世のまとめ

山階の石高は多度津で最も高く、その生産力をもって多度津藩を支えてきました。収穫量の半分にも及ぶ年貢、飢饉や水不足に苦しみながらも、山階村の農民は近隣の村々と力を合わせながら稲作を続けてきたようです。

次回は最終回、「近代編」です。

参考史料

  • 生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高覚帳
    寛永17年(1640) 志度町多和文庫/蔵
  • 讃州圓亀領之内多度津壱万石高帳
    元禄7年(1694)
  • 徳川幕府県治要略
    大正4年(1915) 安藤博/編 


    P210、211
  • 四箇村史
    昭和32年(1957) 四箇村史編纂委員会/編
    P197~199、215、216、236~284、306~310、524〜528
  • 香川県農業史
    昭和52年(1977) 香川県農業史編纂委員会/編 


    P33~49
  • 善通寺市史 第2巻
    昭和63年(1988) 善通寺市立図書館/編 


    P16〜25
  • 日本歴史地名大系 38
    平成元年(1989) 平凡社地方資料センター/編 


    P488、490~492
  • 香川県史 別編2 年表
    平成3年(1991) 香川県/編 


    P162~164、203

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