山階と稲作の歴史(古代・中世編)

「民俗編」の続きです。
山階の稲作はいつ始まったのでしょうか。
古代の稲作
山階春日神社の手水舎から東を覗くと、円錐形の山が見えます。讃岐富士の愛称で知られる「飯野山」です。香川県はおむすび山が多いですが、お椀にご飯を山盛りにしたような飯野山の姿は、まさに「飯の山」です。


香川県とお米や稲作との関わりは古代・神話の時代から見られます。
『古事記』には「讃岐の国を飯依比古と謂ひ」と記されています。飯依比古は食物(お米)の神様で、今でも飯野山のふもとにある飯神社で祀られています。
発掘調査によると、讃岐では弥生時代前期(紀元前3世紀)ごろから稲作をしていたようです。温暖で災害が少ない気候は定住しやすく、川によって作られた肥沃な低湿地帯が稲作に適していたのでしょう。
弘田川の恵み
山階地区は飯野山が鎮座する丸亀平野の北西にあり、弘田川の下流域にあります。古代ではこの弘田川は大きな河川で、当時の多度津の港はその河口・賀富羅津にあったとされています。
弘田川の中流域にあたる善通寺市からは大規模な古代の集落跡や船の往来の痕跡が残っています。山階の東の三井地区からも弥生時代前期の集落跡が見つかり、山階の丘陵地からも弥生式土器が発掘されています。
大陸の技術が瀬戸内海・賀富羅津・弘田川を通じてもたらされ、全国的にも早い段階で発展していたようです。
稲作を中心とする共同生活からは、やがて権力者が現れます。権力の元となるのは土地の生産力です。弘田川流域には古墳が集中しており、生産力の高さがうかがえます。
山階もかつては古墳の群集地だったようですが、田園の開拓が進み、現在はほぼ消滅しています。
多度津の由来

多度津は古代に名付けられた「多度」という郡名に、港を意味する「津」を合わせたものです。
そして、多度の由来は田荘という説があります。田荘とは豪族が私有する農業経営地のことです。この地を任されていた豪族は佐伯氏で、その子孫には空海(弘法大師)がいます。
また、山階春日神社の南西(善通寺市吉原町付近)には同じ「多度」という小地名があります。この地名は田所(田を管理する役所)の名残とされていて、これが多度郡の由来とも言われています。地名からも当時のこの地の稲作の盛んさが伺えます。
古代の米どころ「讃岐」
この地に古代の条里制(口分田)の遺構があることは過去の記事(山階の土地)でご紹介しましたが、香川県内では広範囲で同様の遺構が見られます。

志度町多和文庫には天平7年(735)の年号を持つ日本最古の田図『山田郡弘福寺領田図』も保管されています。日本最大の灌漑用ため池「満濃池」が作られたのもこの頃。雨が少ない讃岐で稲作をするために作られ、後に空海が改修工事をしたことでも有名です。
時代が下がると記録にも現れてきます。『倭名類聚鈔』によると平安時代中期の讃岐の田んぼの面積は「萬八千六百四十七町五段二百六十六歩」とあり、これは約18,000ヘクタール。今の香川県の耕地面積の6割以上に達します。
古代の讃岐は、全国でも有数の米どころとして早くから開拓が進められ、発展していたようです。
重い税負担
飛鳥時代には稲(お米)で税を納める仕組み「租」ができました。
当時の租税は稲の収穫量の約3〜10%とそれほど高くありませんでしたが、男性はその他に布や特産物を都まで納めたり、労働や兵役の重い負担が科されました。そのため戸籍を女性と偽ったり、逃げる人が続出したようです。
正倉院に養老5年(721)の讃岐の戸籍の一部が保管されていますが、9人家族で男性は3人のみとなっており、当時の農民の生活の苦しさを物語っています。
やがて口分田の制度は崩壊し、国は土地を私有することを認め、やがてそれは権力者の私有地である「荘園」へと変わっていきました。
中世の稲作

中世では土地を権力者に預ける「寄進系荘園」が増えますが、それは山階地区にも広がっていたと思われます。
地区内には「阿庄」のように荘園名による地名や、「惣官」「公文堂」「こうとう(勾当)」のように荘園管理者に関わる地名が残っています。山階という地名も京都・山科の権力者の影響を受けたのでしょう。詳しくは別の記事(山階の由来)で解説しています。
この寄進系荘園が増えたのは、年貢(租税)が重かったことに加え、土地を奪われる可能性があったため。権力者の後ろ盾を得ることで土地を守りました。また、小作人(土地を持たない農民)は地主から借りて稲作をするものの、年貢とは別に収穫量の半分を納めなければいけませんでした。
農民は苦しい生活を強いられていましたが、さらに厳しさを増し、この頃には満濃池も荒廃していたようです。
農民の努力と結束
農民は過酷な状況を生き抜くため、有機肥料や二毛作により田の生産性を上げていきました。
讃岐ではこの頃から米と麦の二毛作が行われるようになったようです。同じ田んぼで春から秋にかけては米、秋から春にかけて麦を作るようになりました。これは土地が狭く雨の少ない香川県において、農地や水を効率的に活用するための知恵でした。
また、室町時代末期にはお米は約100品種にまで増えていたようです。これは日本各地の気候の違いによって生み出されたものであり、農民は複数の品種を栽培することで天候不順による凶作に備えていました。
また農民同士の団結力も強まり、組織化されていきます。山階でも春日大明神への信仰をもとに、各集落で「講」が組まれたのでしょう。水利(農業用水の管理)や冠婚葬祭の相互扶助の組織が作られたのはこの頃だと思われます。
農具や設備の発展
農民を助けた人々もいました。古代から技を磨いてきた職人たちです。
中世では鋳物師(金属加工の職人)の集落が点在するようになり、武士が使う刀だけでなく、鋤や鍬などの鉄製農具も大きく発達しました。また川から水を汲み上げられる水車も稲作を進展させました。
山階地区には「こいのくち(樋の口)」「ひわたし(樋渡し)」「あんじょじ又」「五区又」「いやなか又」のように水路設備に関する地名が多く見られます。
古代・中世のまとめ
山階の稲作は弥生時代に始まり、弘田川の恵みにより早くから発展していました。明確な史料こそ残されていないものの、古代の遺跡群や条里遺構、地名などがそれを証明しています。
また讃岐は面積の割に平野部が広く、開拓せずとも稲田として使える土地が多かったことも、古代から稲作が発展した理由のひとつと考えられます。
水不足や時代によって変わる支配体制にも、この地の農民は結束力を強めながら対応し、地道に稲作を発展させてきたようです。
次回は「近世編」です。
参考史料
- 西讃府志 1・2
安政5年(1858) 秋山厳山(惟恭)/著 - 倭名類聚鈔 2
明治2年(1869) 源順/著 - 訂正 古訓古事記 上巻
明治3年(1870) 永田調兵衞/編 - 四箇村史
昭和32年(1957) 四箇村史編纂委員会/編
P46~49、50〜53、57、66~72、89、93~95、107~109、120、121、197~199 - 香川県農業史
昭和52年(1977) 香川県農業史編纂委員会/編
P22~33、680 - 多度津町の地名
昭和63年(1988) 多度津町教育委員会出版/編
P3、89〜96
「山階と稲作の歴史」記事一覧
- 第1回 山階と稲作の歴史(民俗編)
- 第2回 山階と稲作の歴史(古代・中世編)
- 第3回 山階と稲作の歴史(近世編)
- 第4回 山階と稲作の歴史(近代編)
